常宿寺の歴史

「常宿寺 歴代住職」

「開創一世大鵬観洲尼和尚」
 常宿寺開創木村観洲尼は、中嶋郡本神戸村字宮山田中新兵衛氏の長女として、嘉永6年(1853年)7月6日誕生。明治3年(1870年)中嶋郡宮地の(当時は曹洞宗)報恩寺四世木村恵光尼の養女となり、同13年に相続、五世となられましたが、明治34年頃報恩寺を退いて、当地通称南木(なぎ)に移られました。南木には、その頃までに常宿寺が面していた巡見街道の四つ辻に三十三番の観音堂、その前に観音様とお地蔵様の小さな祠が有りました。その石の線香台には「天明」の字が読み取れます。また寺内には「当堂開基法尼教順(明治20年旧12月3日寂)」のお位牌がありますので、明治初期には、通称観音堂、あるいは阿弥陀様を御本尊様とする阿弥陀堂が存在していたものと思われます。(旧書類の中には、初代様を阿弥陀堂住職とするものも見受けられます。)
 過去帳からは明治24年から32年にかけて、田中家の親族が次々と亡くなられ、田中家の子孫が絶えてしまったことが伺われ、また、観洲尼が出られた後、明治39年に報恩寺は臨済宗に転派しておりますので、何かその間に事情があったかもしれません。恐らくこうした経緯を経て、得度の本師名古屋市東区松山町の安斎院八世大機玄透大和尚の法灯を嗣ぐ曹洞宗の寺院を建立せんと志を立てられたものと思われます。
 大正7年、濃尾地震(明治24年)にて倒壊した葉栗郡島村の浄土真宗の浄恩寺本堂の古木材を譲り受けて、当時の南木の村人達が総出で資材を移し、さらに初代様が私財の全てをなげうって、本堂を建立したと伝えられています。この時はそれまで建っていたお堂を庫裡側に移して、本堂が建てられました。(それまでのお堂の一部が、現在の三十三番観音堂の虹梁に使われております)
 当時新寺の建立は認められず、既存の廃寺の名号を譲り受けることになり、総代さん方は東京近辺までもしばしば足を運ばれた由、寺内に残る古い書類からは複数のお寺の寺号があり、初代様や総代さん方がこのお堂をお寺にするに当たり非常なご苦労をなさったお跡が見受けられます。縁あって神奈川県高座郡上寺尾の寶光寺末の常宿寺の寺号を大正14年頃に移すことが出来、曹洞宗寺院として発足しました。
 尚、現在の「待鳳山」の山号は、三世社本玄光尼の住職の時、参禅指導に拝請した沢木興道老師の命名によるものです。
 常宿寺という寺号を得て、大機玄透大和尚を開山に拝請して開創一世になられましたが、報恩寺を引退して入山されたので村の人は皆「隠居さん」と呼び親しんでおられた由、昭和11年(1936年)5月21日に世寿84歳で遷化されました。

「二世 大心俊道尼和尚」
 寺内に当山二世と入牌してありましたが、観洲様亡き後、一人でお住みになるのは気が進まないということで、実際は報恩寺にずっとおられたそうです。(昭和32年9月13日遷化)

「三世戒學玄光大和尚」
 明治41年10月26日、丹羽郡大口町において、社本亀一郎氏の三女として誕生。
 大正8年(12歳)自ら名古屋市西区円頓寺道りの曹洞宗釈迦堂(後に妙元寺)三世定心恵光尼の下に弟子入り。大正11年(15歳)安斎院住職杉浦玄透師につき得度。大正12年4月(16歳)東区柳原町の曹洞宗関西尼学林に入学。
 昭和6年(24歳)泰安殿護国寺(後に永平寺別院)にて沢木興道老師の謦咳に接し、非常なる衝撃を受け、以来正師として老師に深く傾倒し、生涯参随することとなりました。
 昭和13年(31歳)人を介して、「安斎院の大機玄透方丈様の開山所の庵寺が空いているので入っては貰えないか。」という要請があり「玄透様の開山所なら」とすぐに承知され、秋に常宿寺の住職になられました。「入ってすぐ、隠居様の三年を勤めさせて貰った」とは玄光様のお言葉です。
 昭和15年頃から、沢木老師を拝請して尼僧団との共催にて、法華経講讃の接心が隔月三日間ずつ行われ、これは、妙元寺に転住されるまで続きました。また、山内では年末年始の朝課諷経の前に、三千佛名経の礼拝も行っていました。
 現存する、お釈迦様、大迦葉様、阿南様、十六羅漢様の御像を勧募され、また支那事変、大東亜戦争と、戦中戦後の大変な時期に、本当に枯淡な生活を送られながら、常宿寺をお守り下さいました。
 昭和20年1月参3日の空襲によって、妙元寺(元釈迦堂)が焼失。五世宗光尼、六世戒光恵明尼(玄光様の実妹)、順光沙弥尼が大変痛ましくも、焼死されました。その後、千種区振甫町にあった、平常庵の土地建物を買い求められ、昭和22年(40歳)11月3日沢木老師より御寄進頂いた釈迦牟尼佛坐像の入佛式が行われ、老師様より山号を久法山と命名して頂きました。この時から玄光様は妙元寺七世の名跡を継がれました。
 常宿寺、妙元寺両住職をお勤めの間、20人に近いお弟子を育てられ、本当に多くの人々に尊敬され、慕われた玄光様は、昭和62年8月御発病。薬石効無く昭和63年4月4日遷化されました。(世寿81歳)

「四世祖庭光文大和尚」
 大正14年1月2日神奈川県茅ヶ崎市堤において岡本賢次氏の二女として誕生。昭和22年(22歳)4月7日。釈尊降誕会接心の前日、初めて、常宿寺に上山。9月9日常宿寺において沢木老師に得度して頂く。翌23年4月5日尼僧学林に入り、5年を修行、この間愛知学院大学短大に入り、同29年3月卒業。妙元寺に入る。玄光様が妙元寺に移られてから、常宿寺は空き寺になりましたが、西枇杷島の弁天寺の鬼頭宗芳庵主様が月に何度か泊まって下さったり、61歳で得度した渡辺妙真尼が、7年間留守番をして下さいました。この、妙真尼が、昭和31年11月1日に遷化なさった後、「「今度は若い人を寄こしてくれなければ・・・」という村の人の要望だから、今の所お前さんに行ってもらわないと」という玄光様のお言葉で、この年の12月、妙真尼の小練忌法要を兼ね、入寺。32年1月兄弟弟子の梅光尼と一緒に沢木老師に嗣法して頂き、常宿寺四世に就任致しました。
 昭和34年9月26日の伊勢湾台風により、甚大な被害を受けましたが、36年に改修が成りました。さらに昭和62年には有縁の方の財を基金として町内皆様のご支援を頂き、老朽疲弊していた庫裡を二階建てに改築、引き続き門前の三十三番観音堂を、裏に物置をつけて改築、境内の墓地改修、歴住塔建立と、まさに全心身を投げ打ってのご尽力により、常宿寺は次第にお寺としての形を整えるに到りました。
 また、本師沢木興道老師の「如法のお袈裟を普及させたい」という御発願を受け継ぎ、昭和40年中頃より約30年間、毎年春と秋の年二回お袈裟を縫う福田会を主催、尼僧堂を初めとして、全国各地から請われるまま、お袈裟把針の指導を続けられました。
 令和2年3月20日遷化 (世寿96歳)

「五世眞月慧光大和尚」
 昭和27年(1952) 3月30日東京都練馬区貫井において、小野三嗣、恵の次女として誕生。
 昭和33年(1958) 東京都中野区立武蔵台小学校入学
 昭和39年(1964) 学習院女子中等科入学。第1回東京オリンピック開催。
          (父がトレーニングドクターだったおかげで、開会式を国立競技場で
          観ることができました)
 昭和42年(1967) 学習院女子高等科入学。
 昭和45年(1970) 学習院大学法学部法律学科入学。
 昭和49年(1974) 学習院大学法学部卒業後法学部助手。
 昭和50年(1975) 9月退職。
 昭和53年(1978) 1月渡英。ロンドン滞在
 昭和54年(1979) 10月帰国。
 平成元年(1989) ヨーガ、坐禅始める。
 平成 6年(1994) 11月東京・中野功運寺お袈裟の会にて岡本光文師よりご指導を受け
          お袈裟把針を始める。
 平成 8年(1996) 駒澤大学仏教学部禅学科3年に編入学。
          演習と卒業論文を小坂機融教授にご指導を受ける。
          卒論『正伝のお袈裟について――正法眼蔵『伝衣』の巻と
          袈裟功徳』の巻の比較研究。』
 平成10年(1998) 3月駒澤大学卒業。5月29日高輪泉岳寺にて得度式を挙げて頂く。
          7月常宿寺に入寺。9月1日愛知専門尼僧堂掛搭。
 平成12年(2000) 10月岡本光文師の養女となる。
 平成13年(2001) 4月 泉岳寺夏前安居において立職。
 平成14年(2002) 2月 光文師に嗣法。5月常宿寺副住職。
 平成16年(2004) 旧本堂 解体工事開始。
 平成17年(2005) 8月1日 常宿寺住職に就任。
 平成18年(2006) 常宿寺ウェブサイト開設。
          5月常宿寺新本堂落慶式。晋山結制を修行。
          写経会、毎朝の坐禅会開始。
 平成19年(2007) 参禅道場認可。
 平成20年(2008)〜平成21年(2009)
          一宮市大和仏教会会長。緋恩衣認可。
 平成22年(2010) 9月18日 朝日新聞掲載。
 平成23年(2011) 3月 タウン誌『クレヨン』掲載。
 平成24年(2012) 3月 土曜ヨーガ教室開始。9月写経会が中日新聞ウェブサイトで紹介。
 平成25年(2013) 11月 日曜ヨーガ教室開始。
 平成29年(2017) 1月 中日新聞掲載。
          2月9日NHK「ほっとイブニング」にて紹介される。

 常宿寺の創建については、豆太鼓といわれる逸話が残っている。

 ある時、継母が先子と実子を区別して、炒った豆を先子に、生豆を実子に持たせて、畑に蒔かせたところ、なかなか芽が生えず、時を経て、炒った豆を蒔いた先子の畑からたった1本だけ芽吹き、大きく育った。これを見た継母が前非を悔いて、その豆の木で小さな太鼓を造り、観音堂を建てたとの言い伝えがあり、太鼓は現在も臨済宗妙興寺の仏殿に保管されてある。
(この観音堂が常宿寺となったという言い伝えを、4世光文が南木の村の古老に伺ったことがある)

豆太鼓
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