今月の標語 2020年

2020年 「8月の標語」

愛を英語でいうとLOVEですよね
これは元々 英語圏にはなかった言葉です
聖書が英語圏に伝わっていくとき
訳している中でLOVEという言葉が
生まれたのだそうです

――― ヨガ・シャラ インストラクター 松本 和也師

札幌にある瞑想ヨガスタジオ「ヨガ・シャラ」のインストラクター 松本 和也師はYouTube「和yogiチャンネル」で、魂の成長を目指すための沢山の動画を公開なさっています。

このページでも、何度かお話しましたが、お寺には様々な方が、話を聞いてほしくて駆け込んできます。大抵は、ただ聞いて差し上げるだけで、ほとんどは落ち着くのですが、A子さんの場合は、最近忙しすぎて、疲れがたまっていたこともあり(と、言い訳していますが(-_-;)))
以下、彼女の話を聞いている間の私の心の声(酒もたばこも好き放題で、脳梗塞で手術?食べ過ぎからの糖尿病は自業自得でしょ!寝られない?今朝何時に起きたの?えっ、8時!!??一日、仕事もしないで、朝、そんだけ寝てたら、夜、眠れるわけないじゃん😡 ついには、私の方がブチ切れてしまい、数日は怒りが収まりませんでした。

丁度その時に、今回御紹介する、和さんの以下の動画を拝見して、恥ずかしくなり、申し訳ない事をしたと反省しました(-_-;)
和さんには、ここで掲載することを、御了解頂きましたので、そのまま、まっすぐに読んで頂いた方が良いと思いました。

「困難・災いを乗り越える方法・魂が成長する人の特徴とは?」
https://www.youtube.com/watch?v=RI__ZjSCWhM&list=PLDnnHhYv7Tyig8yNDLkoaEYVMM_xExJPU

ヨガインストラクターで瞑想指導者の和です。この動画では、これから起こる困難を前向きに受け止め、周囲の人を幸せにして、さらには自分の魂を成長させることが出来てしまう4つの方法をお伝えしたいと思います。
コロナウィルスの影響で外出自粛、大不況、倒産、リストラ、先の見えない混迷の中で、不安になったり、イライラしたりすることが多くなってきていると思います。
笑顔や、優しさをついつい忘れてしまって、子供たちに突っ込まれているのは 私だけじゃありませんよね。
今、私達は試されていると思います。

それは困難に打ち勝つ不屈の精神ではなく、愛が試されているのだと思います。
ここで言う愛とは、もちろん特定の人に向けた愛情の事ではありません。今、試されている愛とは、性別や年齢を超えて、人種や国や宗教も超えてつながろうとする愛です。
世界全体が苦しい時、困難な時こそ一人一人の愛が求められています。
そう、愛を実践することは、出来事を前向きに受け止めること、それだけではなく、愛は周囲の人を癒し、幸せにして、さらには自分の魂を成長させることが出来てしまう、これは人間にしかできない、人間だけに与えられたギフトだとも言えます。

でも、愛を行動に移す時、何をすればいいか分かりませんよね?具体的には何をすれば、それが愛になるのか、
その答えは意外にも愛という言葉、その中にありました。
愛を英語でいうとLOVEですよね。これは元々、英語圏にはなかった言葉です。
聖書が英語圏に伝わっていくとき、訳している中でLOVEという言葉が生まれたのだそうです。
その時、こういう行いが愛なんだよ、とされてその行為の頭文字4つを重ね合わせて作られた言葉がLOVEと言う言葉になったと言われています。つまり、LOVEという言葉の語源は、イエス・キリストが人々に行ったこと、行為そのものだったのです。

キリストがどういうことを行っていたかと言うとLはlisten聞くこと、Oはover look全体を見ること、Vはvoice優しい声かけ、Eはexcuse許すこと、これだけ聞くと、聞いてるし、見てるし、しゃべってるけど、何か?
そう感じる人もいるかもしれませんよね。もっと、分かり易く解説しますね。

LOVEのLはlistenの頭文字をとって作られています。Listenは聞くということですが、ただ聞くだけではありません。身体で聴く、心で聴く、判断せずに聴く、という事なんです。例えば人の話を聞いている時に「私はそうは思わないけどなあ」と頭の中で判断しないということです。「うん、うん」と体を使って聞き、話す内容について、いい悪いの判断をせずに最後までしっかり聞くことです。もし、貴方の話をそんな風に、聞いてくれる人がいたとしたら「ああ、受け止めてくれた、なんか話しやすかったなあ、なんかスッキリした」きっとそういう風に感じると思います。実は、聞くことはコミュニケーションにおいて最も重要なスキルなんです。もし仮にあなたが抱える悩みを誰かに話したとして、その相手がスマホをいじりながら、「フ〜ン、ああ、そうなんだ」そんな感じで、心ここにあらずの状態だったら、貴方はどう思いますかね。そう、いやな気持になったり、寂しい気持ちになったりしますよね。Listenの意味は「愛をもって聴くこと」です。

二つ目のOはover lookのOなんですけど、over lookとはどんな行いだと思いますか?それは人の短所を大目に見るとか、目をつぶるとか、見逃すという事に加えて、人のいいところを見る、または、いい所を見つける、という行いです。誰にでも長所、短所があります。その長所に注目してあげて、足りないところ、短所は大目に見る、その位の方が相手にとっても自分にとっても穏やかな関係を維持することが出来るはずです。育児などでも、子供の長所に注目して、褒めて伸ばすことで、子供に自信が着き、短所が薄れていくことが分かっています。
このことは「長所伸展の法則」と呼ばれています。Over lookは「愛をもって観ること」です。

三つ目のVはvoiceのVです。voiceとは元々声のことですが、ここでは優しい声かけ、または褒めることです。とはいえ、日本人の場合、人を褒めることも、褒められることもあまり慣れていませんよね。なので誰でも簡単に、しかもすぐに出来る優しい声かけを一つ提案しますね。それは挨拶をする時に、語尾に音符をつけるだけでいいんです。例えば、「おはよう」これに音符をつけてみますね。「おはよう(^^♪)」こうなりますよね。
これは実際の声掛けだけじゃなく、メールやlineなどといったメッセージのやり取りでも使えます。メッセージの最後に♪をつけてみて下さい。受け取った相手は貴方の優しさを感じるはずです。でも、男の人はそんなこと恥ずかしくてできない。そう思うかもしれません。その時は、時折、感謝の言葉を添えてみるのもいいかもしれません。例えば食事の時「ご馳走様、美味しかったよ」とか、「いつも有難う、助かるよ」とか、些細なことでOKです。Voiceは「愛をもって声をかける」ことです。早速、コメントでほめてもらってもいいんですけどね。

最後、4つめのEはexcuseのEです。Excuseは許しです。そう、許すこと。キリストは十字架に貼り付けにされてもなお残虐的な民衆たちを許しました。私たちにはそこまでの事が出来なかったとしても、子供が言うことを聞いてくれない、旦那が話を聞いてくれない、部下が、上司が、攻撃的だ、それくらいの事であれば、許すことにチャレンジできるかもしれませんよね。

許しについて、一つ、エピソードをお伝えしますね。皆さんはアーミッシュという人たちをご存知ですか?アメリカやカナダに住む人々で、現代技術の導入を拒み、電化製品もほとんどない中で、自給自足の生活を送っています。彼らはキリストの教えを忠実に守り抜き、絶対非暴力主義を貫いています。彼らは、戦争や訴訟にも反対しています。聖書の記述を根拠として、誰かと戦うことを、徹底的に拒否しています。強いて言えば、アーミッシュは常に丸腰の状態、そんな暴力的な事件とはほとんど無縁であるように思えるアーミッシュが銃乱射事件という残酷な事件に巻き込まれたことがありました。
2006年10月3日ペンシルバニア州ランカスター郡で、当時32歳の男が銃を持って学校に押し入りました。男は女子生徒だけを教室に残し、銃を発砲しようとしましたが、その時、13歳の少女が年下の生徒をかばおうと「私を先に、撃って」と犯人に訴えたといいます。その勇敢な少女は犯人に撃たれ即死、その少女の11歳の妹も「次は私を」と続いたそうです。5人の少女が撃たれて亡くなり、5人が重軽傷を負うという事件になりました。
犯人の男は発砲後に自殺、この男は、学校の近所に、両親と一緒に住み、牛乳を配達していたそうです。非暴力を貫くアーミッシュの、しかも女子生徒がターゲットにされたこと、アーミッシュの少女が「わたしを撃って」そう勇敢に訴えたこと、そのことでこの事件は世界中から注目されることになりました。そのうえで、事件後、さらに世界中を驚かせたのは、アーミッシュたちが、自殺した犯人とその家族を許すことを表明したからです。実際、犯人の家族の家には、事件の夜からアーミッシュの何人かが訪問して、「あなた方を許します。」そう伝えたそうです。そして犯人のお葬式にもアーミッシュたちは参列しています。犯人の親と被害者の親が肩を抱き合いながら泣いていたそうです。攻撃には攻撃で仕返しをするような世の中において、攻撃に対して許しを返したアーミッシュ、ですがこれは簡単なことではなかったことは想像に容易と思います。許しを表明したアーミッシュの遺族の葛藤や、生き残った少女たちがトラウマに苦しむ姿が目に浮かびます。この許しの行動の背景には、ものすごい葛藤があること、アーミッシュといえど私たちと同じ感情を持った人間、聖人でもなんでもありません。家族を殺した犯人を許すということ、彼らは葛藤しながらも、キリストをまねて愛を貫き通しました。この話を知った時、普段、些細なことで、腹を立てている自分がものすごくちっぽけに感じました。Excuseは愛をもって許すこと。

まとめます。困難な状況においても周囲の人を幸せにして、さらには自分の魂を成長させることが出来てしまうその方法は、愛です。具体的には4つ。愛をもって聴くこと、愛を持って観ること、愛をもって声かけすること、愛をもって許すこと、こんな大変な世の中だからこそ、少しでも愛の実践をしていきたいと思います。

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冒頭、A子さんに、ブチ切れたことを書いてしまいましたが(-_-;) 実は先日、やはりお寺にみえたトモコさんとの時間は、このところ落ち込んでいた気力、体力を、見事に復活させて下さるほどのインパクトを頂けました。
6月にトモコさんの妹さんの御葬儀をお勤めさせて頂いたことで、お寺でお会いする機会を頂いたのですが、お話しを伺っていて、トモコさんがこの標語のページを(かなり過去の標語まで遡って)非常に丁寧にお読み下さっていることがすぐわかりました。それぞれについて、的確で、しかも幅広い知識に裏付けられた感想をお話し下さった時には本当に驚きましたし、藤井棋聖の言葉を真似れば、僥倖としか言いようのない時間となりました(^^)

僧侶としての使命とは?自身の生存の意義までも自問自答するようになっていた昨今でしたから、私がお通夜やご葬儀で参列の皆様にお話ししたこと、このHPで書いていることに、ここまで関心をお寄せ頂けることが、どれだけ私を癒して下さったことか!!様々なことのあった私ですが、しみじみと「生きていてよかった」と思いました。トモコさん、本当に有り難う💓

2020年 「7月の標語」

たき木 はひ(灰)となる
さらにかへりて
たき木となるべきにあらず
しかあるを
灰はのち 薪はさきと見取すべからず

――― 道元禅師『現成公案』

先月は4月10日にアップされた「エリック君が語るコロナウイルス後の世界その1」をご紹介しましたが、
その前、3月28日に「エリック君が語る世界の終わり(End of Times)について― 物理世界を超えて自分の中に地上天国を体現する時」メタフィジックス通信がアップされました。
https://www.youtube.com/watch?v=bnxV6f68n-Y

「英語では、「世界の終わり」を(End of Times)と表現することがあります。現在、巷で言われているエンドオブタイムズについて、エリックチームの霊媒の一人であるキムが、彼女のチャンネルにエリックを招いて話をしています。世界の終わりの本当の意味とは、どのようなものでしょうか。

みなさん、こんにちは。今日はとても重要な話題について、エリックから聞いた話をみなさんとシェアしたいと思います。
いつもなら私はスピリットからプッシュを受けて、お話する内容を決めるのですが、今回のテーマに関しては、スピリットではなく、みなさんの方からエネルギー的なプッシュを受けているように感じ、それだけ重要な話題だと考えています。
今回のテーマは世界の終わり(End of Times)についてです。みなさんもどこかで耳にしているのではないかと思いますが、この話題には大きな誤解が付いて回っているようです。
エリックはここにいますので、彼と会話しつつ、彼からのメッセージをお伝えしたいと思います。」

 (以下、エリック)
「世界の終わりが近づいているとどこかで聞いた時 君は一体、どう感じる?
もしそこに恐れを感じるなら どうして自分は恐れるのか理由を考えてみよう。

それは誰か別の人の恐れなのか、もしくはそう反応するよう誰かに教わってきたことなのか?
もしそうならば、そこから自由になる時だ。

世界の終わりについて考えた時、多くの人は、何もかもが失われると考える。
トラウマになるような大惨事を考える人もいるだろう。実際、世界の終わりは近付いている。

その時に、何か恐ろしいことが起きると考える人もいるだろう。
でも全く反対だ。世界が終わるということ。それは世間で言われているようなことじゃない。

時間という概念を持たず、自分に対する気付きを持って、自分の現実の中に生きるということだ。
植物も動物も、既にそのように生きている。人間は、そこに加わる最後のグループだ。

時間に縛られて生きることをやめる。それは既に起きている。
それが世界の終わり(End of Times)ってことだ。

僕らは時間に大きな力とコントロールを与えすぎている。
君の魂は時間に縛られないものなのに、君が自分で縛られに行ってる。

自分の幸せを時間という概念で規定するなら、僕らは野蛮になるし、不幸を作り出すし、幸せがなんであれ、それを損なってしまう。

これが叶ったら幸せになるとか、あれが成功したらほっとするとか、そういう感覚について、僕は話している。
結婚したら幸せになるとか、時は金なりみたいな野蛮な生き方は、クソくらえだよ。

それがまさに、自分の存在や幸福を時間で規定するってことなんだ。
君がそんなふうに考える時、君の幸せは時間という箱の中に囚われてしまう。

もちろん、誰でも時間には追われるよ。そして確かにマインドと時間は、秩序を作り出すツールでもある。
でもね、それは君のアイデンティティじゃない。
自分のアイデンティティを時間で規定する時、僕らは本来の自分、自分の幸福、自分の神聖さを貶めることになる。

魂の不死性についてもね。明日なんてないんだよ。明日は明日経験すれば、それは「今日」だ。
リアルに経験できるのは、常に今この時だけだ。

「明日はいい日になる。」そういう希望を持つのは悪くない。でも、あくまで君は、自分の存在を今に置かなくていけない。

世界の終わりと聞いたとき、99%の人は恐れを感じる。彼らは、その言葉の本当の意味を知らない。
自分でコントロールできない何かが起きると思っている。

そうじゃない。世界が終わる(End of Times)とは、絶対で純粋な存在になることだ。
その状態では、マインドの認識すらも超える。考える必要もない。意識が拡大する。ただ知ることが出来る。今この時を生きることで意識は拡大し、その外側と融合する。

より大きな喜びと平和を感じることが出来る。
純粋な意識であることは、自分は不死の存在だという気付きの中に生きることだ。
そして、時間に君を定義させないこと。君のエネルギーを、何にも制限させないでいること。

世界の終わりとは、僕らが物理世界を越えて、自分の中に地上の天国を体現する時だ。
だから次にこの話題を耳にしたら、どうか喜んでほしい。美しい体験が待っている。」

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以上の話を、聞いた途端に、すぐ納得できる方は、恐らくいないと思います。それどころか、首を???とひねりたくなるでしょう?
私たちは、実際の物質世界に生きていますから、「自分は不死の存在」などと気づいている人の方が圧倒的に少ないでしょう。
私たちは、物心ついた時から、時計を見ながら生活することに慣れ、訓練されてきましたから、自分の肉体にしても、おぎゃあと生れ落ち、段々成長し、そして、年老いて、最後は死んでいく、と言う風に変わっていくと思っております。
エリック君は、我々から見るところの「死後の世界」の存在ですから、こちらの物質世界の時間の概念は通用しないということを、まず大前提として認識する必要があります。

私は、このエリック君の話を聞いた時、道元禅師の『現成公案』を思い出しました。

「 たき木、はひとなる。さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきあり、のちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。」

つまり、我々は、薪に火をつけ、燃え、それが燃え尽きれば灰になったと見ますが、そのように見てはいけないというのです。

「生も一時のくらゐなり。死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。」

即ち、生はその時のものの在り方にすぎず、死はその時のものの在り方にすぎない。例えば、冬や春のようであり、冬が春に変化したわけでも、春が夏に変化したわけでもない。ただ冬の状態があり、ただ春の状態があるだけである。決して、何らかの変化しない実体が存在してその実体が冬から春へと姿かたちを変貌させた、というわけではない、と道元禅師はおっしゃっているのです。
物質にとらわれたものの見方からは、決して理解しえない世界です。

道元禅師の坐禅は悟りを目指すものではありません。凡夫が修行して仏になるのでもありません。
「修証一如」と申しまして、坐禅そのものが悟りのすがたであるという「絶対的肯定」を説かれました。
「全宇宙の側から真理が顕現する」と言うのがその原型になっており、『現成公案』にはその世界観が、如実に描かれているのです。
ですから、エリック君の話を聞いて、かなりの共通点を感じるのは、必然であるような気がいたします。

最後に我らがお師匠様、沢木興道老師のお言葉をご紹介します。

「宇宙いっぱいのものを即今、即今、一切に尽くして行じてゆくことが三昧である。」
「真の出家とは絶対染汚することのない本当の自己を知ることである。宇宙いっぱいに生きる自己の生活を創造することである。」
「無我無心と言うても、べつにボーっと意識がなくなるということではない。無心とは必然に反抗せぬことである。つまり宇宙とのつづきに服従することだ。宇宙とのつづきで働くことである。」

まさかここで、エリック君と沢木老師がconnectするとは思いませんでしたか?

2020年 「6月の標語」

やあ 
ぼくはエリック
そうさ
死んだ人間だよ

――― エリック・メドフス

エリック・メドフス君は2009年10月6日20歳で亡くなりました。
その数か月後、彼の母親エリーサ・メドフスさんは「チャネリング・エリック」(Channeling Erik)というブログを立ち上げました。現在は、YouTubeに数多くの動画がアップされています。
https://www.youtube.com/user/drmedhus

エリーサ・メドフスさんは30年以上内科医として勤務し、医学博士でもあります。5人の子供の母親でもあります。育児に関する3冊の著書があり、学校、子を持つ親のグループ、あるいは企業で講演も行ってきました。

エリック君の死後、数か月して、ジェイミー・バトラーというスピリット通訳者(一般にいう霊媒師)を介して、メドフス親子はコミュニケーションをとることが出来るようになりました。
彼女は、そもそも無神論者だったそうですが、亡くなった息子との対話を通して、あの世が実際にあることを確信するに至りました。
それ以後、今日に至るまで、複数の通訳者を介して、エリック君は、死後の世界から、スピリットガイドとして情報を発信し、苦闘している人間界の人々を助け続けています。

私が、エリック君の存在を知ったのは『死は終わりではない』(原題:MY LIFE AFTER DEATH:A  MEMOIR FROM HEAVEN 死後の私の生活…天国からの回顧録) 2017年12月13日発行(きこ書房)という本を読んだことからでした。
この本は、エリックとエリーサの共著になっています。亡くなっている人が著者とは、かなり稀有の事ですね(*_*)

この本の中では、彼が亡くなるまでの経緯と、死後の世界について、かなり詳しく描写されていますので、ぜひご一読をお勧めしたいと思います。この本で描写されている向こうの世界と、私が葬儀等を通して感じる、亡くなった方の居る世界のイメージが、感覚的にダブってくるので、エリック君のお話にはかなりの信憑性があると信じています。

今月の標語で取り上げたのは、現在のコロナ騒ぎについて、エリック君がコメントしていたので、ぜひ皆様に知って頂きたいと思ったからです。

「エリック君が語るコロナウイルス後の世界その1・2020年アセンション予報4月8日〜メタフィジックス通信」
https://www.youtube.com/watch?v=F8Ze0fc-a_Q&t=38s

母:エリック、今日は、とにかく世界で何が起きているのか教えて欲しい。この先、パンデミックは経済にどう影響するの?
エリック:景気は、まだこの先も悪化する。最悪の状況だと感じる人も出てくるだろうね。でも、ある人にとっては悪い状況でも、別のところにはお金をたっぷり持ってる人がいて、そういう人たちが経済を刺激することになる。 だから、完全に立ち直れないほど悪くはならないんだけど、まだすぐには回復しないから、しばらくは頑張るしかない。

母:そこまで悪くはならないんだ。
エリック:うん。みんなが思うほど深刻にはならないと思う。ただ、今という時は、僕たちがどうしてここにやって来たのか、思い出す時間だって言えるよね。恐れを味わい、信頼を取り戻す。それは実に人間らしい、貴重な経験なんだ。今はすべてが悪く見えたとしても、必ず上向きになる。そのために、懸命に動いている人もいるからね。

母:今後、不況にはなるの?
エリック:景気は後退するけど、世界恐慌までは行かない。2008年のリーマンショックの時みたいになるって思うかも知れないけど、まったく同じにはならない。景気後退をもたらした原因や状況が違うからね。
これは覚えておいて欲しいんだけど、市場を崩壊させるのは経済そのものじゃなくて、人々の恐れなんだ。人々が恐れにフォーカスすると、経済もどんどん落ち込む。

(中略)
母:私たちがパニックになるかどうかも、集合意識の自由意識と関係しているの?
エリック:もちろんだよ。今、何が起きているかについて、きちんと理解している人も大勢いるけど、恐れに陥っている人も大勢いる。でも、すべては潤沢にあるんだけどね。

母:欠乏は幻想ってこと?
エリック:うん。今は本当にいいタイミングなんだ。もちろん、コロナウィルスはリアルな現実だよ。毎日多くの人が亡くなったり、深刻な症状に苦しんだりしている。それは非常に痛ましいことだし、家族にとっては苦しい時だ。
でも、この状況には別の側面もあって、いわゆる新しい地球へ向かうシフトの一環なんだ。
みんな長い間、これを待ち望んでたでしょ。何を望むかにはよく注意しないと。

母:その話は私もよく聞くけど、地球Aから地球Bに移動するみたいな?
エリック:物事はシフトする。かつては重要だと思われてたけど、実際には有害だったものが変わっていく。

母:私にとって、今回のパンデミックから得る大きなレッスンは、集団的思いやりと自立心だと思っている。
エリック:うん。まったくそうだよ。それにね、僕たちは自分たちが状況をコントロールしてると思ってるけど、こういう時には、見えない力も多く介入するんだ。いわゆる神のエネルギー、ソース、ジーザス、ブッダ、モハメッドなどなど。

母:高次の力ってやつね。
エリック:うん。
(中略)
母:亡くなった人は、向こう側に移行するの?
エリック:信じようと信じまいと、彼らはこの時期に移行するという計画で、ここにやって来てたんだ。

母:国際社会が協力して、中国に賠償を求める可能性は?もちろん、中国の人たちが悪いわけじゃなくて、ウイルスが悪いんだけど、政府の責任は問われてもいいんじゃない?
今まで中国の人は圧政に苦しんできたから、彼らにとってポジティブな変化につながればいいなと思うけど。
エリック:変化は、起きることになる。元の通りには戻らない。たとえば、去年の9月みたいな日々が再びやって来るかと言うと、そうはならない。グローバルレベルで物事は変わる。

母:中国政府はどう変わるの?
エリック:彼らは、自分たちが思ってたほど偉くなかったことに気付くだろう。これまで国民を完全に支配してると思っただろうけど、これからはそうはならない。
香港で何が起きてるか知ってるだろ?変化はとっくに始まってるんだ。

母:その変化は、コロナウィルスで立ち消えになったりしない?
エリック:絶対ならない。これは人々にとって目覚めだ。今まで半分目覚めてたけど、これからもっと目覚める。

母:北朝鮮はどう?これを機に、フレンドリーで素敵な国になったりしないの?
エリック:いや、ならない。でも、以前に比べたら戦争する気を起こさなくなる。彼らだって、自分たちより大きな力を持つ国があることに気づくからね。
現在、コロナウイルスは、この惑星のあらゆる側面に影響を与えてる。もちろん、それには理由がある。僕らが椅子に座って、あの国はあれをした、これをしてないとか言うのは簡単だけど、これらすべての背後には目的があるんだ。それは、人々をひとつにするっていうことだ。

母:9.11の後にも似た感じがあったけど、永遠に長続きしなかったわ。(訳注:2001年9月11日に始まるアメリカ同時多発テロ事件の後、アメリカ国民の間には愛国的な意識を共有する風潮がありました)
エリック:9.11も、集合意識への影響は大きかったんだけどね。たとえば、洪水の被害に苦しんだことがある人は、今、洪水に苦しむ人の気持ちがよく分かるようになる。つまりは、そういうことなんだけど、今回は地域を限定した話じゃない。世界中で、みんなが同じ目にあってる。「自分は関係ない」なんて、誰も言えない。
これはね、ママ、信じて欲しいんだけど、決して悪いことばかりじゃないんだ。

母:計画ってことでしょう?
エリック:うん。

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4月7日に1都1府5県に、緊急事態宣言が発令され、4月16日にそれ以外の道府県(全47都道府県)にも拡大されました。
この原稿を書いている5月23日時点では、東京など首都圏の1都3県と北海道は継続されていますが、新規感染者数の減少が続けば、31日の期間満了を待たずに25日にも解除する方針とのことで、ひとまず一息付けそうなことは喜ばしい限りです。

ただ、この数カ月ほどの間、テレビや新聞といういわゆるメディアが報じるニュースは、ほぼ朝から晩まで垂れ流され、人々の恐怖を増幅させ続けました。
皆が恐怖に意識を向けていると、社会においては、それがますます現実化していきます。
個々人のレベルでは、恐怖は冷静さを失わせ、ストレスをさらに増やし、そのことが、自己免疫力を損ないますので、情報はある程度、自分で加減して、取り込む必要を痛感します。

オーム真理教の事件の頃には「マインドコントロール」という言葉が、巷間でよく言われていましたが、現在はメディア発のネガティブニュースに、まさにマインドコントロールされている状態のようにみえます。
見方によっては、人間の心身に想像以上のダメージを与えるという点からいえば、このようなニュースはウィルスよりも危険です。

今日アップしたような話は、科学的根拠が無いと言って、顧みない人がいることも承知しています。
ただ、事の真偽の詮索は横へ置いておいて、ここで言われていることが、私たちの「心」へどのように作用するか?を見た時、ニュースで恐れを増幅するより、はるかに良い効果をもたらすと信じています。

科学で証明されないものは信じないとか、死ねば終わり「無!」とか、あるいは、死というものを、条件反射的に忌み嫌う…などの幼稚な態度ではなく、せっかくできた時間の余裕で、ぜひ、書物などを通して慣れ親しんで頂きたいと、切に願っております。その方が、向こうへのスムースな移行を助けてくれます。
誰一人の例外もなく、遅かれ早かれその時は来るのですから…

死後の世界を信じない人々の死後が、全く「取りつく島がない」状態でいることを、何度か経験しており(ひどい場合、霊界での寝たきり状態)、そのような場合、どれだけお経を誦んだり、供養しても、僧侶としてなす術がありませんので…(-_-;)


2020年 「5月の標語」

災難に逢う時節には
災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候

―――  良寛

良寛様が文政11年三条の大地震の際に、知人に宛てて書いた有名な手紙の一節です。
(三条地震:文政11年11月12日(1828年12月18日) 震度7:新潟県(推定) 死者1500人以上 負傷者2600人以上(この時、良寛様は70歳))
 「地震は信に大変に候。野僧草庵は何事なく、親類中、死人もなく、めでたく存じ候。(中略)しかし災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。」

これを読んで下さっているアナタ、もしアナタがこんな手紙を友達からもらったとしたら、恐らくドン引きすること間違いなしですよね(-_-;)
 普通に「だよねぇ!」と共感できる方は少ないと思います。それはなぜでしょう?

皆さんは良寛様というと、まず、子どもと遊ぶ、素朴でやさしい好々爺のようなイメージを思い浮かべられる方が多いと思いますが、実際には禅を極め、非常に厳しい人間観を持っていた方だという事は、あまり知られていないように思います。

 托鉢をしに里に出てきたのに、子ども達と毬付きで遊んで一日を過ごしてしまったとか、隠れんぼをしている時に、夕方子ども達が家に帰ったことに気付かず、いつまでも隠れていたとか、泥棒に入られた際、何も盗るものが無いと哀れみ、煎餅布団をやったとか、その素朴な人柄、子ども好きを表す有名なエピソードが多く残っています。

 良寛様は江戸時代中期、1758(宝暦8)年12月、越後出雲崎の名主橘屋山本以南を父に、秀子を母に生まれ、名主の跡取り息子として育てられました。
18歳で名主見習い役となりますが、橘屋跡取りの立場を放棄し、突然出家してしまいます。
以後、約20年の間、諸国を行脚し、各地の寺で、厳しい禅の修行を積みます。
その間には、父橘屋以南は、京都桂川で入水自殺を遂げています。
39歳で帰郷。それからは寺には住まず、塩炊き小屋に住んだのを皮切りに、五合庵では約二十年間住みました。
実家橘屋は弟の由之(ゆうし)が継いでいましたが、公金横領の嫌疑をかけられて、家財没収のうえ所払いとなり、没落しております。 1830(天保二)年、74歳で遷化。

このような暮らしぶりから、自由で気ままな日常生活が想像されますが、実は自分を厳しく見つめる求道者としての一面が、残された文章などから伺えます。
例えば、江戸末期の寺院は、キリシタン禁制のため、寺社制、本末社制がしかれ、幕府の庇護下におかれており、生活が保障されていた為、腐敗の時代だったとも言われています。そのような中で、良寛様は、仏道の志のためでなく、立身出世のために出家してくる同僚達を大変厳しい目で見つめておりました。

良寛様は九十箇条にのぼる「良寛禅師戒語」を遺しています。
例えば、「言葉の多き、口の早き、話の長き、もの言いのくどき、こころにもなきことを言う、負け惜しみ、返らぬことを幾度も言う、人のことばを笑う、人の傷つくことを言う、人を嫉むことを言う、行き過ぎたことを言う、自慢話、人のもの言いきらぬうちにもの言う、話の腰をおる、よく心得ぬことを人に教える、物知り顔に言う、悟り臭き話、あくびとともに念仏、」等々。
これは九十箇条のほんの一例ですが、胸に手を当てるまでもなく、誠に、冷や汗の出る思いです。(-_-;)

この原稿を書いております、4月21日時点で、新型コロナの感染者は、日本国内で1,1000人を超え、国外での感染者も、230万人を超えました。
先月の標語でも、ご報告しました通り、先代住職の容態が3月に入り、予断を許さない状態になって参りました。隠居様を送る前に、責任上、私の方が先にコロナにやられるわけにはいきませんでしたから、3月からは、月参りを休ませて頂くことにしましたが、各お家に、そのことの御願いのお電話をしましても、皆様の反応は、どちらかと言うと、電話の向こうの声は、のんびりとしていて、コロナに対して、まだそんなに危機感は持っていない印象でした。
4月に入り、緊急事態宣言・外出自粛要請を受けて、各お家に再度お電話をしてみると、状況は一変しておりました。酷い方はコロナに感染した為ではなく、こうした状況そのもので体調を崩していらした方が、少なからずおられました。

新型コロナ対策の外出自粛が長引く中、報道等によれば、家の中の息苦しさや緊張感を訴える声が聞かれ、さらにDVや虐待の増加も懸念されているようです。
目に見えないウイルス、収入が減ること、そして何より終息の見通しのなさなど、私たちの暮らしは解消されない心配事と不安に満ちています。
不安は茫漠としていて掴みどころがなく、大きな負のエネルギーに満ちていますので、心を蝕みます。

ただ、その不安を、よくよく観察してみると、得体のしれない病気に感染し、死に至るかもしれないという不安と、経済的に困窮して、究極的には、食べられなくなって死ぬという、いわゆる経済死の問題という、2つの不安に行き着くと思われます。
毎日増加する死者何万という数字や、処理しきれずに安置されている棺がずらっと並んでいる外国のニュース映像などを見せられ続けると、死がひしひしと身近な問題として迫ってくるので、不安はますます増幅されていくのだと思います。
ほぼ朝から晩まで、TV等で流される情報は、死ぬことは不幸なこと、即ち「終わり」であり、絶対に避けねばならないこと、が大前提となっておりますから、恐ろしく、否定的な気持ちになるのは当然のことです。

しかし、ここでちょっと冷静になってみて頂けませんか?
いつも、この標語を読んでいて下さる方でしたら、私が何をお願いしたいか、もうお分かりでしょう?

先月までの標語で、ずっと、「死は恐るべきものではない」、「死は終わりでもない」、「死は苦の娑婆からの卒業」と、言い続けてきました。ここはお寺のHPですから、仏教の本当の教えをご紹介する場でなくてはなりません。

お釈迦様にまつわる『四門出遊』という有名な逸話が残っております。
https://bukkyouwakaru.com/dic/s9.html (仏教辞典)参照

『四門出遊 〜 老いと病いと死の苦しみを悟られる』
幼いころから多感であったシッダルタ太子でしたが、そのシッダルタ太子が出家を志す大きな機縁になったといわれる四門出遊(しもんしゅつゆう)というエピソードがあります。

ある時、東の城門を出られた太子は、路(みち)に、歯が落ち腰は曲がり杖に頼って歩く、あわれな老人の姿をご覧になられました。その枯れ木のような老人の姿を見て、人間、誰しもやがて必ず、あのように老いていかねばならない、と、老いの苦しみを痛感されたのです。

またある日、南門を出た時、病人を見られ、人は病むという病苦の現実を深く実感されました。

そして西門を出られた時に、葬式の行列を見られました。先ほどまで元気だった人が、青白くなって、もう動かなくなる。そして、焼かれてひとつまみの白骨になってしまう。人は必ず死んでいかねばならない。やがて死ぬのになぜ生きるのだろうか。
人間は必ず死んでいくという、死苦(しく)の現実をまざまざと知られたのです。

最後に北門を出られたとき、出家した僧侶を見て、人間は限りある命を、自分の欲を満たすために生きるのではなく、老いや病や死を超えた、なにか普遍的な真理を求めるために生きているのではないだろうか。
私も、老いても病んでも、そしていざ死ぬとなっても崩れない普遍的な真理に目覚めていたいという、求道の気持ちが日に日に強くなっていかれたのです。

そんなシッダルタ太子の父・浄飯王(じょうぼんおう)は、太子が物思いにふけりやすい性格を心配して、カピラ城の中に老いや病や死といった人生を考えさせるようなことをなるべく排除していたともいわれます。

しかし、老人や病人や死人をまのあたりにした太子は、これが自分自身のまぎれもない未来であることを深く悟ったのでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、ここで、再び良寛様です。
18歳で出家とは、お釈迦様の出家の動機にも似た、切実なものを感じますが、その後の生家の事情なども、より真剣な修行の後押しにもなった様に想像できます。
誠におこがましい事ながら、一介の主婦であった私が「死んでも構わない」と思い詰め、全てを捨てて家を出たのにも、それなりの事情があったからに他なりません。

そうであればこそ、初めから死ぬ覚悟ですから、世の中で、わが身が脅かされるようなことがおきても、「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。」と言い切れるだと思います。

余分の事を付記すれば、常宿寺坐禅会では、数百人単位で、参禅者を受け入れて参りましたが、その中で、「死んでも構わない」あるいは「この修行に失敗したら死ぬしかない」と思い詰めてお寺の本堂に足を踏み入れた方は、大変残念ながらゼロでした。

命がけの修行を志さなければ、続くはずもなく、誠に虫の良い話と言わざるを得ません。それは修行ではなく「趣味=坐禅」の世界です。発心=発菩提心に基づかなければ、修行にはなりません。

コロナ騒ぎの前は、全く休日の無いコンビニ状態でしたから、正直言って、70歳目前の私には体力的にかなりきつい毎日でした。
なので、突然降って湧いた長期休暇に、今はワクワクして、幸いにも頂けた自由に使える時間を有意義に使いたいと思っています。まさに「ピンチはチャンス」です。

隠居様を送った直後の私が、今切実に思うこと、それは「身辺整理をせねば!」です。
隠居様の場合、もうホームから出てこられないという状態の頃から、徐々に整理を始めましたから、亡くなった後にやったことは、わずか段ボール3箱分の使えそうな衣類をホームと尼僧堂にお願いしただけで、遺品整理は完了しました。(書類上の手続きはメチャメチャ大変でしたが(-_-;) )
問題は、私自身のモノで、これらを、私が死んだあと人様に片付けてもらうなど、考えただけで申し訳なく、何とかせねば…とあせっています。

自分が明日死ぬかもしれないと予定して、片付けをすることは、「本当に必要なものは何か」を教えてくれる絶好のチャンスです。モノを手放すと言うのは、実際やってみると、自分の欲や未練とどのように決別できるか、の一点にかかってくるように思います。

最後に、松岡修造さんの名言を、アナタに!
「崖っぷちありがとう!! 最高だ!!」  
「真剣に考えても、深刻になるな!」

2020年 「4月の標語」

自然への畏怖をなくし
傲慢になった人類には
必ずしっぺ返しが来る

――― 手塚治虫

3月下旬の時点で、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、世界中に蔓延し、終息の目途も全くたっておりません。昨年12月以降、中国湖北省武漢市を中心に発生し、瞬く間に世界中に広まってしまいました。
昨年11月に、千葉県成田の叔父のご葬儀を執り行うため一宮と往復しました時、道中、あまりの中国人観光客の多さに驚愕しました。
1月の春節の時にはさらに沢山の中国人観光客が日本にやってきましたので、マスコミがダイヤモンド・プリンセス号のことばかりを報道している間にも、私は、すでに2月中に、恐らく全国的に蔓延しているだろうことを危惧しておりました。
ごく近い身内が、クリニックを開業しておりますが、彼が「新型コロナウイルス感染症が疑われる患者が、普通に受診してくるし、それで、保健所に検査を依頼しても断られる。自分の感覚ではかなり感染が広がっている。」とも言っておりました。公式の感染者数、死亡者数がかなり低めなのも、こういう所に一因があるのかも知れません。
現在の日本は、大変残念なことに、観光のみならず、中国無しでは経済が成り立たない状態ですので、流行の初期段階から中国人を拒否することに政府が及び腰になるのは、致し方なかったことなのかもしれません。
国民の健康上の危険性と、経済的な危機を天秤にかけながら、綱渡りのような政策を余儀なくされているのでしょう。
このまま事態が、さらに悪化すれば、地球上がとんでもない事になるかも…と思った時、小学生の時に読んだ手塚治虫の漫画をふと思い出しました。題名は忘れましたが、地球上に人間が住めなくなり、宇宙船で脱出するという場面だったように思います。

ネットで調べてみると、やはり、天才手塚治虫は、しっかりと警鐘を鳴らしていました。
私は『鉄腕アトム』で育った世代ですが、彼が未来社会を舞台にした多くの作品を発表するなかで「迷惑していること」があったそうで、代表作の『鉄腕アトム』が、世界の技術革新によって繁栄し、幸福を生むというビジョンを掲げているように思われたことだそうです。
実際の「アトム」は、自然や人間性を置き忘れて突っ走る科学技術が、いかに人間や生命あるものを傷つけていくかを描いたつもりだったようです(光文社知恵の森文庫『ガラスの地球を救え 二十一世紀の君たちへ』)
https://tezukaosamu.net/jp/message/
これは余談ですが、私の実家は、練馬区で医院を経営しておりました。手塚治虫さんが、風邪をひいた時など患者さんとして受診にみえたと両親から聞いたことがあり、そのことからもとても親近感がありました。

現代では、一見、科学技術の発展や経済面で、アメリカをしのぐ勢いを見せていた中国からこの忌まわしい疫病が発生したという事が、何かを象徴しているように思います。
まさに「自然への畏怖をなくし 傲慢になった人類には 必ずしっぺ返しが来る」気がしてなりません。

世の中がこのようになってきたせいでしょうか、お寺に悩みを持って駆け込んでくる方もいらっしゃいます。
先日、檀家の方が、突然お寺を訪ねて来られました。
その時の会話です。
Nさん:今、息子と喧嘩して「出ていけ」と言われて、どこへ行くこともできず、来てしまいました。
私:それは、大変。どうしました?
Nさん:今日は息子が病院や、接骨院に行くため、仕事を休んでいまして、そのために、お金がいるから、くれ。と言われたのですが、うっかりしていて、出せるお金がありませんでした。そう言ったら、息子が怒り出して、「医者へ行かなければ、明日から働けない。もう明日から仕事しない」。挙句に「出ていけ」と私に言ったのです。
私:それは、悲しいねぇ!!大事に育ててきた息子にそんなこと言われて…。そもそも、息子に「出ていけ」なんて言う資格はないのだから、「私と一緒に居たくないと思うならアンタがでていけ」、といえばよかったじゃあないの。
でも、彼もずーっと体調が悪くて、働くのが嫌になってしまったのだから、彼の怒りも分からなくもないね。
貴女も高齢だし、彼も具合が悪くて働けないなら食べることが出来ない、それなら死ぬしかないという事態になるけど、「それも仕方がないんじゃあない?」 そのように彼に言ってみたら?
Nさん:でも、今借りている市営住宅でそんなことになれば、迷惑かけるし、そんなことできません。
私:それなら、市役所にそう言って、二人とも働けなくて餓死するしかないから、時々様子を見に来て、死んでいたら片付けて下さい、と頼んでおけば、そんなに迷惑かけるほど酷い状態になる前に、何とかしてくれるんじゃあないの?
そもそも、こんな世の中に、これだけは何としても…と力まなければならないようなことあるかしら?

ちなみに、Nさんがお釈迦様に伺ったとするなら、お釈迦様は何と答えられると思いますか?

恐らく、「この世に生まれてきてしまったこと自体が苦なんだから、これ以上、苦しみたくなければ、もう二度と此の世に生まれない為の修行をして、人間をやることから卒業するしかない」、とおっしゃると思います。これがお釈迦様の教えられた基本の教えです。
でも、これでは、我々凡人には取りつく島もない位、厳しいお話しですよね(-_-;)

Nさんの妹さんは2年前に亡くなられ、ご葬儀をお勤めしました。彼女は生まれながらに障害を持っていらしたのですが、それが、死んで体から離れたとたん、体の不具合から解放されたため、本来の姿に戻られて、非常に喜んでおられましたので、そのご様子を遺族の皆様にお話しました。御身内の方の夢にも現れて「私、変わったでしょう」と、見違える姿で、嬉々としていらしたと伺いました。
2月に、ヘレンケラーの言葉を紹介しましたが、障害とは、あくまでこの世で持っていた肉体の状態ですから、当然身体から離れて自由になれば、そのような事態からとりあえず、解放されます。認知症なども、もちろんなくなります。

さらに、寝たきりでほとんど意思疎通のできない隠居様のことも話しました。表面的な物の見方しかしない方、今の隠居様の状態を知らない方は、「一日でも長生きすると良いですね」、とか言いますが、トンでもありません。
そもそも彼女も私も、尊厳死協会の会員登録をしており、延命治療を拒否しています。口がきけていた時に、「余分なことは一切やらないでほしい」「管につながれて死ぬのはイヤ」と頼まれておりました。本当に見ていられない位、気の毒な状態でも、この苦の娑婆の縁が尽きないのでどうすることもできないのです。

もし自分があのような状態になったら、これ以上は無理と判断できた場合、私は食を断って、何もしないでほしいと言う事に決めている、ともNさんにお話しました。自分の意思表示さえできなくなっては、そのようことは不可能ですので。

亡くなった後の方が、妹さんが幸せになっていることを、やはりNさんも感じ取っていたので、「食が尽きるという事はそういう縁なのだから、そのように受け止めた方が良い」という私の言葉を、最後には冷静に受けとめて、納得してお家に帰って行かれました。

実は、曹洞宗の尼僧様で、食を断ち、坐禅のまま遷化された大先輩がいらっしゃいます。
油井真砂(ゆいまさご)さんは昭和14年に弟の正智さんが常福寺(東京都青梅市)のご住職になられてから昭和32年秋に日吉に移られるまで常福寺で過ごされました。
http://risshi.life.coocan.jp/cubkh31.html
 油井真砂さんについては正智さんが書かれた『この人生』(油井正智著 萬貴山常福寺発行)に詳しく書いてあります。
 この本は絶版ですので現在手に入れることのできる本(2004年)では『神霊界の真実』浅野妙恵著(たま出版)の中で、「第三章 私の進路を決定づけた「霊能者」油井真砂先生のこと 114p」に正智さんの『この人生』の概略が載っています。
決して幸福とはいえない幼少期を経て、苦学のすえに医師となった女史が結核を患い、やがて大喀血する瀕死の状態から、蘇生した時に天から与えられたものが稀有の霊能でした。
やがて、曹洞宗・永平寺の森田悟由禅師、筑波山の仙人、太霊道・田中守平氏らと出会い、更に霊能を磨き上げられました。今東光翁なども禅尼の元に通ったお一人で、水が苦手であった女史が海上に放り出されても海面に浮かんでおられた等々の奇跡を実際に目撃し「現実にいる魔女」として、その著書『今昔物語入門』で紹介しておられます。
根深い相談事がもちこまれた際には、入定状態で霊界の過去生にさかのぼって因縁の元を正すという方法をとっておられ、或る、震災で焼死された一家の供養をおこなった際には、入定からさめたときに「気をつけていましたが、つい不手際をしました」と申された右手には大きな火傷のあとが残っていたそうです。

多彩な霊能を現されましたが、最晩年は今上天皇(現:上皇陛下)のご成婚の日から「皇室の為に。一天万乗の大君は十全界を完うされた方でなければなりませんから」との祈りを込めて5ヶ月間もの断食に入られ、その間も普通通りに講話をつとめられました。最期は「やっと心願が果たせました」と申されたのち、その約十日後に坐脱・遷化なされたとのことです。
(https://detailtext-aucfan.com/detail/yahoo/w58401762/)

このような大霊能者とは比べようもない私ですが、坐禅のまま遷化とは、志として持つことは、僧侶の身とすれば許されることなのではと、秘かに強い憧れを持ち、その時を思い描いております。(^^)

(この原稿は、中旬頃に書きましたが、文中に触れました隠居様、当山四世租庭光文大和尚は3月20日午後8時57分に遷化致しました。通常でしたら、すぐご葬儀となるのですが、ここまでウィルスが蔓延しておりますと、皆様にお焼香して頂くことも憚られますので、教区の和尚様3名と責任役員3名、町内会長様のみにて荼毘式を執り行って頂きました。この疫病の終息を待って本葬儀を執り行う予定にしております。この標語をお読みの皆様で、生前隠居とご縁のありました方に、この場を借りて、生前賜りましたご厚情に心より御礼申し上げます。合掌)

2020年 「3月の標語」

死とは人生の続きであり
また 人生を完成させるだけでなく
体をお返しするに過ぎないのです
しかし 心と魂はずっと永遠に生き続けます
死なないのです

――― マザー・テレサ

このところ、お釈迦様の説かれた死後の世界についてお話してきましたが、最近、カトリックの修道女であったマザー・テレサの上記の言葉を知って驚きました。
伝統的なキリスト教の教えよりも、スピリチュアルの教えに近いように思えるからです。「死を待つ人々の家」を開設し、数え切れない人々を看取ってきた彼女の、教理を超えた実体験に基づいた智見のような印象を持ちました。

先月は、亡くなった後に喜びに満ちていたKさんのことをご紹介しましたが、Kさんのお葬式の後、さらに喜びに満ちていた方のご葬儀をお勤めし、私が確信をもつにいたったエピソードをご紹介したいと思います。

ある時、市内のある方から突然お電話を頂きました。聞くところによれば、その方の御父様とのこと、名古屋市内の火葬場で荼毘にしてから、お寺に遺骨を持参するので、葬儀を執り行ってもらいたい、さらにその後、境内の永代供養塔に納骨したいとのご要望でした。

俗名をお伺いし、戒名を考え、ご葬儀と納骨の準備を整えました。翌日、まだ、収骨して間もない温かみの残るご遺骨を抱え、故人の奥様とお子様二人でおみえになりました。ご遺骨を須弥壇に安置して、ご葬儀を始めました。型通りに剃髪の儀、お授戒という風に、ご葬儀をお勤めしていきましたが、しばらくしますと驚いたことに、全身、鳥肌が立って来て、尋常ではない感覚を覚えました。単なる喜びと言い表せないほどの強烈な感情を感じ取りました。数えきれないほどのご葬儀をお勤めしてまいりましたが、ご葬儀の途中で鳥肌が立ったのは後にも先にもこの時だけでした。
滞りなくご葬儀をお勤めしてから、和室に移り、お茶を差し上げました。未だ、ご事情を伺う前でしたが、その時にふと故人のメッセージが伝わってきましたので、そのまま、お伝えしました。
「こんなことを言う資格がないのは充分承知しているが、本当に寂しかった…」と。それを聞いて奥様は涙しておられましたが、側からお子さんが、実はと言って、それまでの経緯をお話して下さいました。

故人は、生前、多額の借金に苦しみ、家族に迷惑をかけないために、当初、偽装離婚のような形になったそうです。しばらくは、家に出入りがあったそうですが、徐々に足が遠のき、その内、音信不通になってしまったのでした。行方不明になってから、どのくらいの年月が経ったかは伺いませんでしたが、ある日突然、警察から連絡が入ったそうです。恐らく孤独死をなさって腐乱死体となり、警察が捜査に入ったのが推定で死後2カ月は経った頃だったのです。捜査によって、元の家族が居ることが判明し、連絡が入ったというわけです。

このお話を伺い、それであのように喜んでいたのだと、納得がいきました。故人にしてみれば、亡くなって、体から魂が抜けてしまっても、その場にとどまり、ご自分の遺体がどんどん腐乱していく様を見ていてもどうすることもできない…どれだけ焦ったか容易に想像できます。
そこへ、警察が家族と連絡を取ってくれて、やっと遺体を荼毘にし、葬式までしてもらえたのですから、鳥肌立つくらいうれしく、やっと安堵したものと思います。

私は、それまで、何となく亡くなった方の、気持ちとか感じることはあっても半信半疑でした。
ただ、先月取り上げたKさんのこと、そして今回の件で、感じたことは当たっていると確信しましたので、これ以降は、ご葬儀に際し、感じたとったことを、ご遺族にそのままお伝えすることにしました。

お話してみると、いわゆる霊感のある方と言うのが、予想以上に多いことが分かり、ご遺族から「私もそう感じていました」と言われることが多々ありますので、そのような時は、大変うれしく、心強く感じます。

つい最近ですが、 宗教にとらわれない「お坊さんのいないお葬式」というCMを目にしました。
その主張する所を見てみると、なかなか耳の痛い部分もあります。
曰く、この「お坊さんのいないお葬式」は、大切な故人への想いに寄り添った「想送式」を執り行える葬儀会館を紹介するポータルサイト、をうたい文句にしています。
「人の尊厳を尊び、遺族が一日も早く別れの痛みから回復し、前を向いていけるような葬儀」と、「遺族や縁のある人たちが納得できる葬儀」の提供が目的とのこと。

「宗教儀式を行わないからこそ、遺族や参列者が故人との最後の時間を大切に過ごし、故人の人柄や個性に合った葬儀をプロデュースできる」とまで言われてしまうと、裏を返せば、従来の僧侶が執り行う葬儀のやり方では、故人や、遺族の想いに寄り添っていない、遺族や縁のある方達は納得していない、といわれているようなものです(-_-;) さすがに、これには愕然とします。

ただ、私は45歳まで主婦でしたから、このような遺族や参列される側のお気持ちも痛いほど分かります。葬儀に参列しますと、長い場合、45分位は、ただひたすら意味不明の僧侶のやっていることを黙って聞いていて、それが一段落したところで、葬儀屋に促されお焼香にたち、訳がわからないうちに終了というのが、通常のパターンです。

これでは、恐らく参列の方のみならず、故人さえも誰の葬儀か分からないだろうと思っておりました。そこで、私は、そのような事態を極力避けるため、葬儀の始めにまず、亡くなった本人に向かって話しかけ、自分のための葬儀なのだと気が付いて頂くようにしています。
そして始まってからも、やっていることの意味をそのたびに解説しながら行います。先週もご葬儀を勤めさせて戴きましたが、ご遺族が「こんなお葬式は初めてでした。本当に有難うございました。」と、大変喜んで下さいました。
このようなことは、故人の魂が、まだそこにいることを私が実感するので、行っていることであり、マザー・テレサがおっしゃっている通りなのです。
僧侶のいない方が、遺族や参列者が故人との最後の時間を大切に過ごせる、と言われてしまっては、僧侶としてこれくらい恥ずかしいことはなく、僧侶だからこそできることをして行かないと、葬儀に僧侶は要らないという状態は、ますます増加していくでしょう。

ご葬儀は普段会わないような親戚の方も遠方から駆け付け、僧侶との出会いもその場限りかもしれません。私はこの時を千載一遇のチャンスと捉え、本当のお釈迦様の教えを可能な限り分かり易くお伝えするよう努めております。そして、故人と遺族の橋渡しができてこそ、僧侶の存在意義があるのではないかという気がしております。

2020年 「2月の標語」

死は一つの部屋から別の部屋に
移るようなものです
でも私にとっては違いがあるのを
ご存じでしょう
それは そちら側の部屋では
私は見えるようになるのです

―――  ヘレン・ケラー

私が子供の頃の小学校の図書館には「偉人伝」の中に、必ずヘレン・ケラーが取り上げられていましたが、今はどのくらいの方が彼女をご存知でしょうか。ご存知ない方のために、手短にご紹介します。

ヘレン・ケラー(Helen Adams Keller 1880年6月27日〜1968年6月1日(87歳没)
アメリカ合衆国の教育家、社会福祉活動家、著作家で、自身が視覚と聴覚の重複障害者(盲聾者)でありながらも世界各地を歴訪し、障害者の教育・福祉の発展に尽くした。

1937年(昭和12年)、1948年(昭和23年)、1955年(昭和30年)と3度来日しており、これを記念して1950年(昭和25年)、財団法人東日本ヘレン・ケラー財団(現:東京ヘレン・ケラー協会)と財団法人西日本ヘレンケラー財団(現:社会福祉法人日本ヘレンケラー財団)が設立された。

実は、私が6年間通学した学習院女子部の最寄りのバス停の前に東京ヘレン・ケラー協会がありました。通学の際に、この協会に通う盲聾の方達と接したり、お話をする機会が多くあり、随分色々なことを教えて頂きました。また、卒業して十数年後に、この協会で、朗読のボランティアをさせて頂いていた時期もあり、私にとっては大変思い出深い協会です。
その当時の印象では、確かに目や耳が不自由という事は、一般的にはハンデなのですが、この方たちには、多分我々いわゆる肉体的には見えている人間には見えないことが見えているのではないか?あるいは聞こえないことが聞こえているのでは?という事を強く感じたことが今でも強烈に残っています。
一つだけ例を申しますと、バス停で、全盲の方とお話をしていた時(この方は、片手だけで身体との間に紙をはさんで、折り紙をしながら、私とお話をしていました!!) 彼女が「バスが来ますね」というのでそちらの方を見ると私には見えなかったのですが、それから1、2分の後、向こうの方に見えてきたのです。おそらく彼女は、別の五感でバスが来るのを、察知したのだとその時に思い、本当に驚きました。

今回、このヘレン・ケラーの言葉を知って、その当時の事がまざまざと思い出されました。
私は、30代頃から、鬱々とした日々を送り、坐禅、ヨガ、そして読書三昧の日々でした。人生に深く悩んでいたので、読む本も、宗教、哲学、そしてスピリチュアル系統の本ばかり、恐らく数百冊は読破したでしょう。そして誰にも聞いてもらえないので、ひたすら思いのたけをルーズリーフに書き、今でも当時書き溜めた分厚いファイルが数冊あります。

スピリチュアル系の本を多読しておりましたので、その中で語られている死後の世界については、かなりの知識を持っておりました。
その後、死んでも構わないと思い詰め、45歳の時に東京から、ここ一宮市の常宿寺に来たのです。
それからは、あれよ、あれよという間に、本堂を改築して頂き、図らずも住職まで交代という事になってしまいました。住職辞令を頂いてから、早いもので、今年で15年になります。

30代の頃は、まさか人様のご葬儀を勤めさせて戴く立場になろうとは、想像だにしませんでしたが、結果的には、その当時むさぼるように勉強したことが、今は、本当に役に立ってくれています。

昨年来、ずっと、この標語の欄で、お釈迦様の修行の目的は、「苦の娑婆からの卒業」とご説明し、お釈迦様が体について「まさに捨つべき最悪の物、假りに名づけて身となす」と説かれていたとお話しました。

これらは、スピリチュアル的に申せば、当然何の矛盾もなく説明できます。ヘレン・ケラーの言う通り、我々は、修行のためにあえて苦しみの多い肉体を持たされるわけですから、その修行を終え、最悪の肉体から解き放たれれば、当然、今まで見えなかった目は見るようになり、聞こえなかった耳も聞こえるようになります。

いわゆる死んだとみなされ、体から離れた方が、この上ない喜びに満ちているのを、ご葬儀の場で、私は数多く経験してきました。ご葬儀の場というのは、私にとってあちらの世界からのメッセージを教えて頂く、絶好の場所なのです。

今から10年程前になります。この町内は半分が浄土真宗のいわゆる本願寺派の家ですので、村のお寺という立場から、信徒総代や責任役員も町内の方達が互選で選んでおりまして、必然的に、半分は本願寺の方でした。本願寺から、責任役員を担っていらしたKさんが、60代で癌を患い亡くなられたのですが、私は当時、正直言って、Kさんが苦手で、良い関係を持てずにおりました。
訃報を受け、Kさんのご遺体が安置されていた場所に足を踏み入れ、ご遺体に近づいて行きますと、なんと私の身体がフワーッと浮き上がるような強烈な喜びに包まれました。あれだけお互いに距離を感じていたのに、「何だ、これは!」という位、Kさんは私を大歓迎してくれたのです。
そこに間違いなくKさんのご遺体があるのに、半信半疑の気持ちでおりますと、その時、Kさんの奥様が近づいてこられ「お世話になりました」とご挨拶して下さいました。あまりにも、Kさんが喜んでおられるので、本来ならお悔やみの言葉を言うべきところ、つい「なんか、Kさん、とっても喜んでいらっしゃいますよ」と思わず口をついて出てしまいました。
その時に、さらに驚くべき言葉を奥様がおっしゃったのです。「庵主様、どうしてわかるのですか!?実は、主人は昨日、亡くなる前、僕、天国に行く、と突然言ったんです」
「ああ、それは、ご両親がお迎えに来られて、どういう所に行くか、きっと見せて下さったんですね」と申しますと、奥様が頷いていました。
Kさんは末期にはずっと癌の痛みに加えて、胃に穴が開いたり、黄疸が酷くなったりと、相当体の苦痛が酷かったように伝え聞いておりましたから、その苦痛だらけの身体から離れることが出来たことで、まさに文字通り、天にも昇る気分になられたのは、容易に想像できます。苦しみが酷かった分、喜びが倍増したのでしょう。

この体験が、あまりにも強烈でしたので、それからの私は、ご遺体に対面した際に何となく感じることを注意深く味わい、伝えるべきと思ったことは、率直にご遺族に伝えるようにしました。

何より、魂が肉体から離れるという事がどれだけ喜びに満ちたものかという事を初めて強烈に体感させてくれたのが、苦手なKさんだったということが、私のそれまでの人間観を覆しました。現在、お互いに快く思っていない間柄でも、死んでから関係が変わるかもしれないと思えば、苦手だという意識も、薄らいでいくように思います。
これを読んで下さっているアナタ、向こうへ行ったら和解できる方がいるかもしれませんから楽しみにしましょうね。(^^)

2020年 「1月の標語」

何の笑いがあろうか
何の歓びがあろうか
世間は常に燃え立っているのに
汝らは暗黒に覆われている
どうして燈明をもとめないのか

――― 法句経(DHAMMAPADA)146 中村元訳 岩波文庫

今年初めの標語から、いきなり暗くて申し訳ありません。m(__)m
お釈迦様がこの世を「苦の娑婆」とおっしゃっていたことを、なかなか理解して頂けなくて、何度も取り上げております。

実は、この言葉は、常宿寺HPを開設した2006年に、「11月の標語」として取り上げました。
その時は、以下の言葉も紹介しております。

「見よ。粉飾された形体を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病に悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。(法句経・147)
 骨で城が作られ、それに肉と血とが塗ってあり、老いと死と高ぶりとごまかしとがおさめられている。(法句経・150)
 世の中は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。(法句経・170)
この世の中は暗黒である。ここではっきりと(ことわりを)見分ける人は少ない。網から脱れた鳥のように、天にいたる人は少ない。(法句経・174)」

なんか、取り付く島もないほど、ますます暗い気分になりますね (-_-;)

13年前の記事でも取り上げましたが、この時のさらに2年前、私は、女流作家で出家でもあるS氏が、新聞に書かれたコラムに対し、手紙を書いたことがあります。その方はあまりにもむごい死に方をされる人たちの多い現代の世相を批判し、『理不尽な死をみつめる』と題して書かれたのでしたが、それに対し概ね以下のような要旨で手紙を書きました。

「今回のタイトル『理不尽な死を見つめる』などと書くことから、お釈迦様のごく初期に説かれたとされる原始仏典をきちんと学ばれた事が無いと言うことが容易に想像される。お釈迦様が説かれた最も基本の教えは、「(因)縁(生)起の法」であり、この世界のあらゆる存在と現象は、因(直接の原因)と縁(間接の原因あるいは条件)によって成り立っているということ。何事にも起こるにはそれなりの理由がある訳で「理不尽」ということはありえない。

次に、「人間は何のために生まれてきたかと、若い人たちによく訊かれる。私はその度、幸福になるために生まれた。云々と答えている。」と、書いてあったことについて、

「諸法無我(あらゆる存在や現象には実体が無い)ということに本当に目覚め、これら全てに対する、執着、煩悩を断ち切り、涅槃に到達できた時に、人は輪廻から解脱する事が出来、そのような境地に到った人を、ブッダと呼ぶのであって、この世に生まれてきたということは、それぞれの克服すべき課題を背負っており、それぞれの輪廻の一過程にすぎない。貴女の文章を読んでいると、煩悩だらけの我々の日常を、無反省に肯定し、あまりにも美化しすぎていることを痛感する。(中略)」

今月の標語のような、お釈迦様のお言葉をS氏が1行でも読んだことがあれば、安易に人々に「幸福になるために生まれた」などとは説けないはずです。仏弟子としては、極めて不適切な態度です。小説家ですから創作はお手の物でしょうが、誤解を生む言葉は慎むべきではないでしょうか。

今の世の中が麻のごとく乱れ、人心が荒廃していることは、何人も否定できない事実ですが、お釈迦様がとかれた『因果の法』で見れば、荒れた世の中は他人事ではありえないと思います。自分達自身の心の反映と思うべきであり、我々人間自身が貪瞋癡に振り回され、それに対する何の反省も持たない生活を続けてきた為に、いよいよ、末世の状況が深刻なものになってきて居るのではないでしょうか。

彼女の文章を読むと、戦争を起こしたり、人を傷つけたりする人たちのことを他人事として、自分の外の事として捉えているという印象を強く持つのです。だからこそ、戦争や原発といった、タイムリーな事柄の度に「ハンスト」を行ってきたのでしょう。彼女への手紙の中で、他人事だからこそハンストが出来るのであり、スタンドプレーに過ぎない、とも書きました。

どろどろした自分自身の内面を深く見つめるならば、自ずと答えは出てくるように思います。
お釈迦様は、「よく整えし自己を拠り所とせよ。」と説かれたのであって、仏弟子であるならば、理不尽などと他人事のように嘆いていないで、率先してよくこの道理を学び、お釈迦様が説かれた方法でよく自分自身を整え、自分を良くして行く事で、世の中を良くしていくしか方法はないと思われます。

2回目にS氏に抗議の手紙を書いたのは、彼女の書いた『釈迦』という小説を読んだ時です。
S氏自身が煩悩の塊のような方なので、人々のセリフのやり取りがそのようになってしまうので、読んでいて違和感だらけになりました。
ここで引用しているお釈迦様の言葉が良い例ですが、原始仏教の仏典や中村元先生訳の経典を読むと、お釈迦様のお言葉とは、全く、煩悩の動きがない至極冷静で、理詰めのお言葉という事が分かります。誤解を恐れずに言ってしまえば、本の虫なので、ひとたび本を読みだすとやめられなくなる私なのですが、私でさえ読んでいて眠気を催す位のレベルなのです。
何故眠くなるのか? その理由はといえば、当然のことながら、煩悩を卒業した方の言葉ですから、普通のドラマや演劇のように煩悩を刺激されて、ハラハラドキドキすることがないからです。
我々は日常生活で喜怒哀楽に振り回され、ウロウロ生きていますが、現存する経典で、最も古いものの中で述べられているお釈迦様のお言葉は、当然ながら、煩悩の片鱗が微塵も感じられません。
だから、それを小説仕立てにすることは不可能なことであり、それをしてしまえる事自体が、大きな間違いの元です。

この時私は、その本の帯に推薦文を書いていた芥川賞作家で僧侶のG氏に抗議のメールをしました。G氏はとてもまじめで素敵な方で、それ以前に何度かメールのやりとりがありました。
「貴方のような立派な方が、なぜあのような本に推薦文を書くのですかと…」それに対し「お怒りはごもっともですが、私とて苦慮しておるのです。ただ、よく読んで頂ければ、あの推薦文にはかなり皮肉も込めたのですが…」とか書いてあったように記憶しています。さらに、「自分はS氏に物事を分かってもらうために、自分の人生の膨大なエネルギーを無駄にしたくありません」とも書いてありました。

私は、本を購入する時、必ず、レビューを参考にしますが、『釈迦』について、私が申し上げたいことが完璧に要約されているレビューを見つけましたので、ご参考までに、ご紹介したいと思います。

「y.kさん」5つ星のうち2.0  釈迦の本質が伝わっていない  2015年6月30日
釈迦の晩年を、回想的に取り上げた小説(作り話)である。小説であり、作者の意図を表現すれば良いとも言える。ただし、釈迦は実在した人物であり、その教えの信者は多い。釈迦の教えを間違ったかたちで教えている表現が多い感じがある。
たとえば、「人間は、この世に苦しむために生まれて来た。」という説法の表現がある。釈迦がこのような表現をしたはずがない。「人間は、苦しみを乗り越えるために生まれて来た。」というならわかる。
カピラバースト城の王子であるナンダと自分の子供のラーフラを本人の意思によらずに出家させたというのも間違いのように思う。釈迦族の存続を望んでいた釈迦が、そんな自殺行為をするとは思わない。作者が何の意図でこうした話を挿入したかは意味不明である。
作者は日本に伝わった仏教のある宗派に出家されている方であり、大乗仏教は、釈迦の教えがニューアンスを変えて伝わっている可能性がある。作者が釈迦の本来の教えを理解されているかはかなり疑わしい。
タイトルを《釈迦》とするのであれば、釈迦の悟りについての背景とか悟りに至る苦悩とか、説法の状況とかをキチンと説明する部分もほしかった。この小説は、釈迦も登場するが、釈迦の教えの本質を伝えたというのではない。タイトルも《釈迦の弟子達》とした方が妥当な気がする。
期待と異なる単なる娯楽小説である。

また、G氏のお話に戻ります。
S氏からG氏に対談したいと直接(確か電話で)申し込みがあり、断ろうと思っていると、次の日にNHKから「対談なさるそうで」と電話がかかってきたと言っていました。恐らくNHKに電話して既成事実のように言ったのでしょう。

そうやって巧みに、新聞やテレビに自分を売り込んできたように思われます。そのエネルギーたるや、想像を絶するものがあります。
恐らくハンストの時も、「やるよやるよ」と、テレビや新聞に電話をしたのでしょう、これが邪推でないことを祈るばかりです。

もし彼女が、まともに原始仏典の一冊でも読んでいたら、お釈迦様を小説風に描くことなど、不遜の極みであることに気が付くはずです。一応頭を剃り、出家の姿をしている者にあるまじき行為です。

一番困るのは、彼女が頭を剃り、衣を着ているので、本当の仏教の教えを説いていると勘違いしている方が少なからず居るという事です。
ただ尼僧というだけで、たまに「Sさんみたい」と言われることがありますが、その度に「あんな人と一緒にしないで」と言っています。

大変残念なことに、S氏からご返事は頂けませんでしたが、質問の真意を理解して回答できる素養を兼ね備えておられないのだと諦めました。(-.-) 

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